広がりはじめた“妊孕性(にんようせい)の温存”という考え方
“妊孕性(にんようせい)の温存”とは何でしょうか
日本人女性では、乳がん罹患率は30歳台後半から増加しはじめ、40歳台後半から50歳台前半でピークを迎えます。その一方で、乳がんと診断された患者さんの1.8%は30歳台前半以下で(国立がん研究センター調べ)、比率こそ少ないものの20~30歳台前半でも乳がんになる方はおられます。
日本の場合、多くの女性がこの年代に妊娠・出産の時期を迎えます。これから子どもを持ちたいと考えている人が乳がんと診断された場合は、そのことを考慮した治療を進めていくことが必要となります。そこで最近注目されているのが、“妊孕性(にんようせい=女性が妊娠し出産する能力のこと)の温存”という考え方です。
乳がんに限らず、がん治療によって“妊孕性”が低下する原因は、主に抗がん剤(※注)にあります。薬剤の種類や量、患者さんの年齢、卵巣機能の状態などによって異なりますが、抗がん剤を投与すると卵巣への血流量が低下し、卵巣機能や卵子にダメージがおよび、将来的な妊娠・出産の可能性が失われることがあるのです。そうした状況に備えることを目的に、患者さんが妊娠・出産できる機会を残しておくことを“妊孕性の温存”といいます。
※注 ①乳がんの代表的な抗がん剤治療であるAC療法に用いられる「シクロホスファミド」は卵巣機能への影響が比較的強いとされています。
②乳がん治療では、放射線治療やホルモン治療が併用されることがあります。このうち、放射線治療も“妊孕性”に影響を及ぼす可能性はありますが、初発の乳がん治療では卵巣付近に放射線の照射は行わないので、ここでは触れていません。またホルモン治療そのものは“妊孕性”に影響しませんが、投与終了まで5~10年かかり、その間は避妊が必要となるため、加齢により卵巣機能が低下するという問題があります。
なぜ“妊孕性の温存”が注目されるようになったのでしょうか
卵巣は、その人が生まれたときにすでに一生分の卵子(原始卵胞)をもっていて、途中でその数を増やすことはありません。しかし抗がん剤の投与は卵巣内の卵子を減少させ、そのため女性ホルモンの分泌不全が引き起こされ、20~100%の確率で早期閉経を誘発するといわれます。
これまでは、抗がん剤治療によって妊孕性が失われるかもしれないことについて、必ずしも患者さんのところに明確な情報が伝わっていたとはいえませんでした。命を救うためのがん治療がまず優先されるため、医療従事者のなかで“妊孕性の温存”についての十分な認識が共有されてこなかったという面もあります。
近年、“妊孕性の温存”に注目が集まるようになったのは、がん治療の成績が飛躍的に向上し、治療後の生活の質(QOL)が重視されるようになったことと大いに関係があります。卵子凍結など生殖医療技術のめざましい進歩もあって、若年乳がん患者さんに対する“妊孕性温存”の重要性が現場でも認識されるようになり、そのための治療が試みられるようになってきました。
“妊孕性温存”の治療とはどのようなものでしょうか
卵子の凍結保存
“妊孕性の温存”には、不妊治療に用いられる生殖補助医療の技術が適用されます。次の2つの方法のいずれかが用いられます。
1.受精卵凍結
パートナーのいる方を対象としています。排卵時に卵子を経膣採取し、体外受精させたうえで凍結保存し、妊娠・出産が可能になった時点で解凍して患者さんに移植する方法です。不妊治療の技術としてもっとも確立しており、生児獲得率(赤ちゃんが生まれる可能性)は30~40%とされます。
2.卵子凍結
パートナーのいない方が対象となります。排卵時に経膣採取した卵子を凍結保存し、妊娠・出産が可能になった時点で解凍して体外受精を行い、患者さんに移植する方法です。生児獲得率は10%程度です。
いずれの場合も、短時間で多数の卵子を採取するために、ホルモン剤を用いて排卵誘発を行うことがあります。
卵巣組織の凍結保存
これは新しい技術として注目されている方法で、腹腔鏡を用いてがん治療前の卵巣組織の一部または全部を採取して凍結保存し、妊娠・出産が可能になった時点で患者さんに移植して戻します。
排卵時期に関係なく、卵巣組織ごと凍結保存して治療終了後に再び体内に移植するため、がん治療後の患者さんを妊娠可能な状態に戻せる可能性があります。現在、国内では限られた施設で、臨床研究として実施されています。
妊娠・出産を考える患者さんは、まず主治医に相談してみましょう
将来において子どもを持ちたいと考えている方は、まずは乳腺外科の主治医にそのことを伝えてみてください。もし主治医が“妊孕性の温存”についてあまり詳しくない場合は、生殖医療に経験のある医療施設への紹介を希望してみましょう。
「卵子の凍結保存」については、医療機関間のネットワークづくりが都府県単位で進められており、がん治療と妊孕性に関する相談や、生殖医療施設の紹介に応じてもらえる地域連携体制が整いつつあります。詳しくは、地域医療連携に関する「日本がん・生殖医療学会」のサイトを参照してください。
「卵巣組織の凍結保存」は、まだ研究段階にあるもので、日本では限られた医療施設でのみ受けることができます。卵巣組織凍結の実施施設については、こちらの「日本がん・生殖医療学会」のサイトを参照してください。
いうまでもないことですが、最優先されるのは何よりも乳がんを治すことです。また、“妊孕性温存”の治療を受けても、必ずしも妊娠・出産に結びつくというわけではありません。医師と相談していく際には、ぜひともご家族、特にパートナーとの十分な話し合いを重ね、がん治療を経て子どもを持つということについて、さまざまや選択肢を含めついてじっくりと考えるようにしてみてください。
乳房再建医からのコメント
- がんになった自分をしっかり受け止めたうえで、
子どもを持つということについて考えてみてください -
清水 千佳子(しみず ちかこ)先生
国立研究開発法人 国立国際医療研究センター 乳腺腫瘍内科 診療科長
“妊孕性の温存”という考え方は、がん治療成績の飛躍的な向上と、生殖医療技術の進歩、そしてがんにおける個別化治療(その患者さんに最もふさわしい治療法を見つけること)の進展などの環境変化のなかで、患者さん側からの希望という形で広がってきたものです。
妊娠・出産の可能性のある年代の方が抗がん剤治療を受けることになった場合、その治療が妊孕性にどう影響するか、どのような方法で妊孕性の温存ができるかを説明したうえで、ご本人やそのご家族も交えた話し合いを慎重に重ねていくことになります。
ただ患者さんが将来的な妊娠・出産を希望されたとしても、がん治療の予後や抗がん剤の効果、卵巣機能の回復状況などによって、必ずしもご希望通りに“妊孕性温存”の治療ができるとは限りません。また妊孕性温存治療を行う場合は、がん治療を円滑に進めるためのスケジュールの調整が必要ですし、妊娠を試みる時期についても、がんの再発リスクの高まる時期を避け、かつ高齢出産になりすぎない“生みどき”を慎重に図っていく必要があります。こうした点が通常の不妊治療とは大きく異なるところです。
一方で、“妊孕性の温存”について情報を得られなかった、情報は得ていたが温存の選択をしなかった、温存治療を受けたが妊娠に結びつかなかったなど、さまざまな事情で子どもをもつ機会を失う方々がおられるのも現実です。医療現場においては、こうした方々のメンタル面をサポートしていく体制の整備も重要課題となっていて、これに対応できる心理士や看護師の育成が進められているところです。
そのうえでなお子どもを望まれる方は、乳がん治療後に改めて不妊治療を受けることもできますし、養子を迎える、あるいは特別養子縁組の制度を通じて社会的に親になるという選択肢もあります。子どもは持たず、その人らしい人生の幸福を求めていくという生き方ももちろん大いに肯定されるものです。
“妊孕性の温存”という問題と直面されたときは、まずは病気になった自分というものをしっかりとみつめ、そのなかでご自身の妊娠や出産、ひいては子どもを持つということについて、じっくりとお考えになってみていただきたいと思います。妊娠ありきでがん治療に臨むのではなく、まずはがんになった自分自身を受け止めるところからスタートする。そのうえで“妊孕性温存”の選択をされたときは、私たちも全力で応援していきます。いつでも主治医や身近な医療スタッフに相談してみてください。